2016年2月17日 作成
指定日
大正13年(1924)12月9日
告示第777号
指定事由
一.日本三大ソテツの1つである。(雄樹)
解説
鎌倉建長寺開山蘭渓道隆二世の法孫定門は、弘長2年(1262)4月、亀山天皇の許可をえて、 生国初倉庄片岡郷に一寺を開き、吉祥山能満福智禅寺と命名した。 元寇の役が起こると、勅願寺として官寺に列せられた名刹である。
この能満寺の本堂の前に立ちふさがっているのが「能満寺のソテツ」である。
主幹は根回り4.5メートル。 地面で数十本の大小の枝に分かれ、その中、大枝3本、中枝11本が数えられる。
枝の方向や位置から四方に分けると、
南方向に、高さ3.20m・長さ7.50m・小枝14~15本・枝もとの周囲1.70m
北方向に、高さ2.00m・長さ5.00m・小枝10本・枝もとの周囲1.70m
中央に、高さ6.00m・長さ4.60m・小枝不詳・枝もとの周囲1.70m
(大正13年測量)
西 昭和54年(1979)の台風で折れる。
東 この方向に高い枝ほとんどなし。
南高北低型の樹形で約80平方メートルに拡がる。
なお能満寺の調査によれば、
天保年間で、高さ2丈2尺・廻り1丈1尺・東西2丈8尺・南北2丈7尺
明治年間で、高さ2丈3尺・廻り1丈2尺・東西3丈・南北2丈9尺
平成6年で、高さ5.60m・廻り6.80m・東西7.50m・南北10.50m
1本から大小90本の枝が出ている。
泉州堺の妙国寺、本県清水の龍華寺及び本町能満寺のソテツを日本のソテツ三名木という。
吉田町に伝わる伝説
家康が村村を巡視している時、能満寺でひと休みした。庭の大ソテツを見て「見事だ」と感心して「このソテツを欲しい」と和尚に頼んだ。和尚は家康のことゆえ断わり切れず、さしだすことにした。
そして、住吉の浜まで運び、船に乗せ清水の港に陸上げして駿府城に届けた。 それから2・3日経ったある夜、家康は物音に目を覚ました。 庭の方で、ぼそぼそと声がする。 不審に思って「誰だ、そこにいるのは」と声をかけた。 誰もいない。
次の夜も、次の夜も同じような声がする。 とうとう、この噂は城中に広まってしまった。 声の出所を確かめてみるとどうもソテツの中である。 静かに耳を澄まして聞くと「いのー、いのー」と言っているようだ。 家康が学者に聞いてみると「いのーというのは、行こう、帰りたいということではないかと思います。」と説明する。 家康は「やっぱりそうだったのか」とうなずき、ソテツの心根を哀れに思い、「そうかそれほどまでに帰りたいのか。残念だが帰してやろう」といって能満寺に帰した。
能満寺に帰ったソテツは、その後、泣くこともなく、すくすくと成長したということである。
【上写真】明治時代初期の木版画