2016年2月16日 作成
文化財
武田氏の朱印状
(たけだしのしゅいんじょう)
指定日
昭和56年(1981)2月10日
指定事由
一.郷土における武田・徳川の攻防を調べる上で、大切な手掛りとなるものである。
(武田氏が遠州で発給した最初の朱印状である)
(武田氏の遠州進攻の道を示すものである)
解説
紙本墨書 一通
- たて 30.7センチ
- よこ 42.4センチ
- 本文 3行
- 全体 7行
- 翻字(画像参照)
この朱印状が発せられた元亀2年(1571)3月は、武田信玄が遠江に侵入しようと大井川を渡って山崎の砦を奪い、馬場氏勝に砦を修築させ小山城とした。これとほぼ同時に遠州で発給した、最初の朱印状である。
その内容は、斉藤四郎右衛門(後に久保田家となる)が知行する船壱艘は、諸役を免除するという意味である。戦国大名は占領地に入ると、諸役を賦課した。特に占領地にある船についてはこれを徴発して、食糧・武器・兵力の輸送に従事させた。この船の徴発強制使用を免除する、という意味と思われる。
斉藤氏は、享禄3年(1530)頃から今川氏の家臣の中にその姓が見られ、駿河小柳津(現焼津市)の辺を知行し、天文5年(1536)の花倉の乱(1536)で没落した。(或はその子の代に武田家に随身した者かもしれない。)川尻高畑の辺を支配していたと思われる。
朱印状というのは、戦国大名が独自の権力を領国内で行使する場合に使った文書であり、朱肉の印を押したものである。大名の命令・公認の書証である。武田氏の朱印は、龍紋であり直径が3.5センチ程ある。
この朱印状の発給せられた川尻は、小山城の東方・大井川河口にあり、武田氏がその水軍と連繋しつつ、小山・龍眼・滝堺・相良・城東と海岸ぞいに中遠に進攻していく道を示すものである。