2016年2月17日 作成
大熊備前守屋敷跡の画像
文化財

大熊備前守屋敷跡
(おおくまびぜんのかみやしきあと)

問い合わせ 神戸2646-4外(現況茶畑)

指定日
 昭和39年(1964)4月1日
指定事由
 一.戦国時代の武家の居館跡を調べる上の、大切な史跡である。

 

解説
大熊備前守屋敷跡と伝わる神戸小字盤ノ谷の原は、湯南原台地の東部片岡原の北西部にある。現在は、屋敷跡の北部半分ほどが切り取られて工場となり、南半分は茶畑となっている。

 武田信玄は元亀2年(1571)2月、山崎の砦を修築して小山城と命名し、越後の浪人・大熊備前守長秀を足軽大将とし、小山城の城主とした。長秀は騎馬30、足軽75人を預かってこれを守り、後陣として相木市兵衛昌朝80騎が置かれた。
 長秀は、城主として元亀3年暮頃まで約1年半程、小山城主としてここに居住した。この時、居館として使われたのが大熊屋敷である。おそらく家臣なども、一部この屋敷のうちに起居していたのではないかと考えられる。
 現在、この屋敷跡の東方は、雑木林で屋敷跡と思われる場所は殆ど茶畑である。東南から東にかけて深い侵蝕谷(盤の谷)があり、この谷の北西部-屋敷跡の東部-に空堀の一部をのこす。屋敷は北から西にかけて湿地にとりかこまれ、南方にも浅い侵蝕谷がある。
 大熊氏の居館跡は、東西約60メートル、南北約50メートル、面積約3、000平方メートル程ある。屋敷の南口を出て東方の小山城までは直線で500メートル、道のりは750メートル程ある。
 ここからは東方に大井川の下流、焼津、北にまわって藤枝、北西に島田まで一望におさめる。特に、湯南原台地の西部、色尾・谷口原は指呼の間に見え、大井川の御陣場-八幡神社の森-が眼前に浮かぶ。
 敵の来襲する方向、兵力などを、判断するには最適の場所である。従って、小山城の出郭の役も兼ねていたと思われる。