2016年2月17日 作成
文化財
鈴木養邦師の石橋
(すずきようほうしのいしばし)
指定日
昭和39年(1964)4月1日
指定事由
一.社会奉仕の実践者鈴木養邦師の公益に尽くした物証である。
解説
鈴木養邦師は庵原郡庵原村に生まれ、七才で出家し、後四国に渡って修行、38歳の時住吉の大円寺で経典の研究につとめていた。
その頃の龍光寺は見る影もなく荒れ果て、住職泰門は寺の再建のために、後任として養邦師を懇請した。弘化二年(1845)、龍光寺に入ることになった。
師は勤倹力行、月明に田畑を耕し裏山を開き、全力をあげて寺の再建に尽くすかたわら、寺子屋を開いて郷党の子弟教育にも心を配った。
明治初年茶業の利を知り、これを研究して茶を蒔き育て、揉んで自らこれを横浜の米国商館に売って伽藍の再建に努めた。また修身・報恩を説き、物を生かして私せずと教え、身をもってこれを実践した。
明治四年(1871)以来、片岡村をはじめ現在の吉田町内の溝や小川にかかる丸太橋を石橋にかけ替えようとし、560ヶ所・石材1720本・その費用1、500円を寄付した。これにより町内の橋は、全部永久橋にかけ替えられたのである。
石橋1本の長さは80~180センチほど、幅は30~33センチ、厚さ15~18センチほどある。
その初めに作った石橋(龍光寺保存)には、次の字が刻まれている。
吉田村石橋六十七所上吉田村龍光寺七世養邦代掛之
明治四未七月 当目村石工幸左衛門
師は、この他、本町最初の導性学校建築基金を寄付し、大井川の氾濫による川尻・片岡の罹災者へ見舞金を寄付するなど、その篤行は枚挙にいとまがない。
郷土の庶民生活の救済や向上に尽くしたことに関して、養邦の右に出る者はないと言ってよい。
明治14年8月示寂する。
平成15年2月、亀山良一氏(神戸2259-2)所有の田畑に所在した石橋を、中央公民館敷地内に移した。
その石橋には、次の字が刻まれている。
明治十四年幸巳八月石橋六捨八ヵ所 世 當村 三輪村
上吉田村龍光寺第七世養邦和尚人 話 岩村善兵衛 石工
改○寄付 人 鈴木○ ○ 森川政
注:“○”は解読不明文字