2016年2月17日 作成
家康御陣場跡の画像
文化財

家康御陣場跡
(いえやすごじんばあと)

問い合わせ 大幡1139(八幡神社境内)

指定日
 昭和39年(1964)4月1日
指定事由
 一.郷土のおける武田・徳川の攻防を調べる手掛かりとなる史跡である。

 

解説
元亀2年(1571)、武田信玄は山崎の砦を取りもどし、これを修築して「小山城」と名づけ、越後の浪人の大熊備前守長秀を城主とし、武田氏はここを拠点として駿河湾西岸を伝って中遠に進出しようとした。元亀3年、三方原で徳川軍を破ったが、信玄が急死したためその子、勝頼が武田氏を継いだ。のち、徳川方は金谷の諏訪原城を落とし小山・田中の両城をうかがおうとした。武田方はこの退勢を挽回しようと三河の長篠で決戦をしたが破れ、大井川以東の立て直しと東中遠の海岸線の強化を計ろうとした。徳川方は、浜松・掛川・諏訪原を結んで高天神・滝境・小山・田中の連絡、補給、後詰めを牽制し、分断しようとして、その前進陣地をしばしば大井川の八幡の森においた。
 時は天正6年(1578)3月と同8月の二度にわたり、ここを御陣場とした。

 遠江古跡図絵後編「太宝院由緒」によれば、
「往昔、家康公小山城を攻め給ふ時、此所に御陣を居られけると云、…夫より小山の城え攻めかかり給ふに、はたして御勝利ありければ、家康公大に悦び給い則ち太宝院へ六石三斗の御朱印を被下ける。又景(境)代地とて二町四方を被下けると也。」
この御朱印と境内地は、八幡神社に賜ったものである。

 ここ八幡神社境内に、1本の老松が御陣場跡を象徴するかのように四方を見下して立っていたが、昭和54年(1979)に害虫により枯れたため切り倒された。