2016年2月5日 作成
吉田町の名前の由来
吉田という地名が生まれたのは、室町初期と伝えられています。その当時の吉田町は一面に葦が生い茂っていたらしく、入植して開拓を始めた人たちは、ここを葦田と名前を付けました。しかし、葦田(あしだ)は悪し田に通ずるということから、葦を吉と呼び替え、願望を込めて佳名好名の”吉田”と決めたのではないかといわれています。
吉田村が誕生するまで
先史時代(~709)
能満寺原古墳
条里制跡
先史時代は縄文・弥生・古墳時代に分けられます。まず、縄文・弥生時代については遺跡も発見されていないので断定は出来ませんが、能満寺原の茶畑の中に石器類が眠っていると予想する事ができます。なぜなら、その後の古墳時代の存在を明らかにする古墳が能満寺原に八基あることを調査の結果確認しているからです。これらは皆、後期の円墳ではないかと思われ、葬られた人たちは吉田たんぼを開拓した人と関係がありそうです。
また、能満寺前のたんぼからたくさんの須恵器が発見され、地名から大日遺跡と命名されました。能満寺原の古墳群とあわせて先人の生活の場であったと思われます。
奈良・平安時代(710~1185)
住吉神社
この時代になると稲作農業が進み、吉田たんぼは条里制という制度によって区画整理されました。
地名で細江郷、神戸郷が出てきます。当時の神戸は「かんべ」と読みました(現在は「かんど」)。推察すると本町の中南郷で、北西部が神戸郷に属していたと考えられます。
平安時代になると、細江郷、神戸郷は共に初倉荘に含まれ、紀州の高野山、京都の南禅寺の寺領となったようです。
鎌倉時代(1192~1333)
能満寺
承外の乱によって、後鳥羽上皇の皇女といわれる久巣皇女が流配され、大幡と大柳の境の君島に住まわれました。皇女が亡くなられた後、この近辺に人が住むようになりました。当時の大井川は川幅が広く、住民は高い所を選んで居を構え、大雨になると氾濫する大井川と戦いながら村を築きあげていきました。
川尻は大井川町の相川(鮎川)の付村・分村でした。そして南禅寺の支配下だったので、年貢などを運ぶ船着場として水陸の交通が頻繁に行われた所だったと予想することができます。
建武中興・南北朝時代(1334~1391)
室町時代(1392~1537)
武田 勝頼
「後小松天皇の明徳年中(1390~1394)吉田と名付け片岡荘に初めて村名を付す」という資料が出てきます。従って吉田の地名の成立は室町時代の初期と思われます。
安土・桃山時代(1575~1602)
家康御陣場跡
元亀2年(1571)武田氏が小山城を築いてから天正10年(1582)2月までの11年間は武田、徳川両氏の激しい戦いが展開され吉田は歴史上の檜舞台となりました。
天正10年2月、小山城を見守っていた武田軍は織田、徳川の連合軍には勝てないと判断し、城兵は外地に骨をさらすより故郷に帰ろうと遂に城を捨て、甲州に落ちのびて行きました。
江戸時代(1603~1867)
堰南学校の始まり
林泉寺
大井川の流路は依然として定まらないため、住民は水害と戦いながら村を守り家を興しました。
宝永3年(1706)武田善兵衛は領主鍋島直方公に願い出て、九左衛門新田開発を始め、朝は日の出前、夕べは星をいただいて開墾に精進しました。山内与五郎も願書を出し、宝永5年新田開発を始め苦心の末、与五郎新田を作りあげました。こうして、祖先の努力によって新しい田が拓かれ、今日の行政区画の基が出来上がりました。
末期の文化、文政になると寺子屋が開かれ、庶民の子も読み書きそろばんの勉強をするようになりました。
明治時代(1868~1912)
町内初の郵便局
半田宅
慶応3年大政奉還で武家政治は終止符を打ち、明治4年の廃藩置県により、吉田は浜松県に属することになりました。
明治5年まで、住吉新田・下吉田村・上吉田村・九左衛門新田・川尻村・高島村・青柳村・与五郎新田・大日村・八幡島新田の六村、四新田でしたが、明治8年大日村・八幡島新田が合併して大幡村となり、明治9年浜松県が廃されたので静岡県の管下となりました。
その後、各村・新田が合併して第六組合を作り、明治22年、市町村制により第六組合を吉田村と改称しました。
昭和時代
昭和24年7月 吉田村を吉田町と改称