2016年2月16日 作成
文化財
能満寺の古文書
(のうまんじのこぶんしょ)
指定日
昭和57年(1982)5月3日
指定事由
一.戦国末期より江戸初期にかけ、能満寺が変転する政情に対処したことを知る大切な記録である。
指定古文書一覧
- 小浜景隆判物
(日付)天正2.6.朔 (宛名)能満寺 (たて)30.0センチ (よこ)44.5センチ (行数)17
- 武田勝頼判物
(日付)天正4年10月13日 (宛名)能満寺 (たて)34.0センチ (よこ)51.0センチ (行数)9
- 武田信豊判物
(日付)天正4年10月28日 (宛名)松溪和尚 (たて)31.5センチ (よこ)43.0センチ (行数)13
- 伊奈忠次手形
(日付)慶長9年8月20日 (宛名)能満寺 (たて)16.0センチ (よこ)46.0センチ (行数)10
- 伊奈忠次手形
(日付)慶長9年8月20日 (宛名)大円院 (たて)17.0センチ (よこ)47.5センチ (行数)10
- 茶阿消息1
(日付)慶長9年8月21日 (宛名)ひせん (たて)16.0センチ (よこ)49.5センチ (行数)1
- 茶阿消息2
(日付)慶長9年8月27日 (宛名)のうまんじ (たて)15.0センチ (よこ)42.5センチ (行数)1
- 茶阿消息3
(日付)慶長9年8月6日 (宛名)のうまんで (たて)17.0センチ (よこ)49.5センチ (行数)1
- 茶阿消息4
(日付)慶長9年10月24日 (宛名)まんねん (たて)16.5センチ (よこ)47.0センチ (行数)1
- 茶阿消息5
(日付)慶長9年10月21日 (宛名)のうまんじ (たて)16.0センチ (よこ)49.5センチ (行数)1
- 徳川家康禁制写
(日付)慶長18.4.× (宛名)能満寺 (たて)31.0センチ (よこ)42.0センチ (行数)11
注:天正2年=1574年、慶長9年=1604年
解説
1.2.3.
戦国時代末期の能満寺は、背後に小山城があり、武田氏の庇護をうけたことがわかる。
6.~10.
能満寺の住職松溪の姉といわれる茶阿の方が、能満寺へ寺領を頂くために奔走したことを伝える手紙である。
4.5.
当国検地奉行の伊奈備前守から、能満寺および大円院への寺領寄進状である。能満寺30石。大円院3石。
11.
徳川家康が能満寺の門前に掲げた禁制が、延宝8年(1680)に流失した。よって、奉行所に届出をし、さらに書写しておいたものである。
以上の文章は、戦国末期(16世紀末期)より江戸初期(17世紀初頭)までの約40年間に、能満寺が乱世の渦中に生き残ろうと、ある時は、新興の勢力に服し、ある時は縁者に依頼して寺領を確保するなど、その苦心の跡を示す書証である。