2016年2月17日 作成
小山城跡の画像
文化財

小山城跡
(こやまじょうせき)

問い合わせ 片岡東原
代表地番2520外37筆

指定日
 昭和39年(1964)4月1日
指定事由
 一.郷土における武田・徳川の攻防を研究する上で、最も重要な史跡である。
 一.平山城として、武田流の築城手法を生かした城である。(城の縄張りがよく保存されている。)

 

解説
 ここは永禄11年(1568)末、武田氏によって山崎の砦が築かれていたが、武田・徳川の駿遠分割協定に基づき家康は、家臣・松平真乗に大井川下流を支配下に治めるよう砦を攻略させた。
 元亀2年(1571)2月、武田方は本格的に遠州攻略にかかり、山崎の砦を奪い馬場美濃守信房をして、これを拡張させ、名を小山城と改め、大熊備前守長秀を城主とした。これから後約11年間、武田方はここを拠点として中西遠へと進出するのであるが、天正10年(1582)2月徳川方の攻撃を待たず落城し、その後廃城となった。

 小山城は、牧ノ原台地の支脈湯南原台地の東南端(片岡原)にあり、志太平野をはさんで駿河当目山と対し、駿河田中城の南、大井川河口右岸に位置する。これは武田氏の遠州攻略の海岸進攻路にあり、最初の橋頭堡の役割をする。即ち、一方は龍眼山・滝境・相良・城東へ伸びる拠点であり、今一方は坂口谷星窪原御陣場から高尾山を通り街道筋の諏訪原へと進む要である。
 
 城は代地の先端を利用して築城され、頂点を東北東にした二等辺三角形をしている。底辺に相当する舌状台地のつけ根の所の長さは150メートル余、中央の堀の所で85メートル、東北の先端から西南の外堀までの距離(二等辺三角形の垂線)は190メートルあり、全面積は約14、300平方メートル程ある。
 南部は三個の堀が三重にならび、片岡原との接続を断ち切る。この内、中央前方の堀は深さ6メートル、幅10メートル、長さ60メートル余に及ぶ。

 城域はこれを三分して、東北部を本郭(面積約3、800平方メートル)、中央の微高地を二の郭(面積約4、000平方メートル)、南部の堀に接する微低地(面積約3、000平方メートル)を三の郭とする。
 本郭は、武田氏が最初に築いた「山崎の砦」で、二の郭と堀や馬出しによって仕切られている。現状は高さ0.5メートルから1.0メートル程の土塁がめぐっており、南側の虚空蔵堂は本郭より4~5メートル下がり、幅は中央で15メートル、長さ約30メートルほどの腰郭になっている。この南は断崖となっており、下に能満寺の墓地がある。
 これも小郭をなしていたと思われる。
 二の郭は、南半分が約110~120センチ程高く、幅は最も広い所で15メートル、長さは40メートル程ある。
 北半分は、高さが本郭とほとんど同じで長方形をしている。
 三の郭は、二の郭より70センチ程低く、幅15~20メートルあり、長さは約90メートルある。南部と南西部に木戸口がある。
 この城の北から東にかけ、湿地と湯日川が拡がり、南部を除く三面は断崖で固められ、周辺との比高は約20メートルある。
 この城の正面は片岡原で、敵襲を阻止する三列九個の空堀は、武田氏の築城技術をそのままに伝えるものである。