2016年2月17日 作成
和泉太夫使用の人形(その墓と関係文書)の画像
文化財

和泉太夫使用の人形(その墓と関係文書)
(いずみだいうしようのにんぎょう(そのはかとかんけいぶんしょ))

問い合わせ 住吉3005-1(小山城内に展示)

所有者
 田中源八家
指定日
 昭和39年(1964)4月1日
指定事由
 一.郷土出身者が使用した、古浄瑠璃の人形である。
 一.郷土の芸能を調べる上で、貴重な手掛かりとなる。

 

解説
和泉太夫使用の人形(その墓と関係文書)の画像その2
三河国矢作宿の長者の娘・浄瑠璃姫が、牛若丸の病気難儀を救うという創作を「浄瑠璃物語」とよび、琵琶や扇の拍子に合わせて語った。慶弔未年(1603)、沢住検校という琵琶の名手がこれを三味線に合わせて唱え語るようになり、門人の目貫屋長三郎は、くぐつ師から人形をあやつることを習い、三味線に合わせて語りながら人形をあやつることを考え出した。
 これが浄瑠璃芝居の起こりである。
 泉州(大阪)堺の薩摩浄見の孫である浄雲は、父祖以来の語りに曲節をつけ浄瑠璃曲を創めた。浄雲の門人である杉山丹後掾・長門掾・桜井丹波掾・虎屋源太夫は四天王とよばれ、そのひとり桜井丹波掾は、後に和泉太夫と称した。和泉太夫の名はその門弟にうけつがれ、その三代目和泉太夫となったのは、下吉田(住吉)出身の田中源五平である。
 元来、この一座は戦国の殺伐な出し物が多く、岡清兵衛の創作した坂田金平の荒事を好んで語った。これを和泉太夫節とよんだ。
 この頃の一座の使った首や幕が昭和40年頃まであったが、いつか当地から消え、くしくもたった一個が和泉太夫の生家に残された。
 一般に古浄瑠璃に使われた人形の面相は「罵り、怒り」を表すものや「呪い、悲しみ、憂い」を表しているものなど、異様なものが多い。ところがここに保存されている首は、極めて正常平凡な面相をしているもので、頭髪は植えられている。首が頭をささえ、手足は竹で胴に連結され、自由に操作できるようになっている。顔の長さ9センチ、幅は6センチ程ある。

和泉太夫の墓
和泉太夫使用の人形(その墓と関係文書)の画像その3
 塔身は、縦21センチ・横13センチ・高さ38センチの方形塔で、正面に「帰天山自通善男」「明和七庚寅十一月六日」又側面に「豊竹和泉太夫」と刻む。
 同家の入り口右側にある。
 注:明和七庚=1770年

道化所蔵の古文書
  • 「元文四歳八月吉 一札事」
  • 「宝永五年五月二十七日 弾左衛門証文写」
 この二通の古文書は、和泉太夫が江戸興業をやめた理由、江戸での紛争の事実、和泉太夫の襲名などを調べる上欠くことができない。
注:元文四歳=1535年、宝永五年=1708年